「我が愛しき教え子の皆様へ」へのメッセージを読ませて頂いて
本当にたくさんのメッセージを頂き、
驚きと感謝の気持ちで読ませて頂きました。
ありがとうございました。
ところで、とても多くの卒業生が、
口をそろえて言っていることが2つありました。
「千葉高が今の自分の原点になっている」
「卒業して初めて千葉高のすごさがわかった。誇りに思う。」
これは何気に凄いことではないかと思います。
特に1つ目が。
ところで、今回のブログは、「少しでも共感してくれる卒業生がいるといいなあ・・・」くらいの気持ちで、実は恐るおそるfacebookに投稿したのです。ところが、蓋を開けてみると、何と当初は、一晩ごとに30くらいずつシェアが増えていくではないですか!「なんだこれは?一体何が起きているんだ!?」と目が点になりました。
しかし、先日、ブログを読んでお見舞いに来てくださった2人の卒業生の話を聞いて、その謎がほぼ解けました。どうやら、その秘密は、卒業生の方々が、何となく感じていたことを私がはっきりと文章化したことにあったようです。
「自由と責任は表裏一体」
「自主自律は当然のこと」
「私とあなたの考え方は違う。でも、そのままのあなたを尊重します」
千葉高システムの高い意図が創りだすこのような千葉高の素晴らしい理念は、まるで空気のように千葉高全体に行き渡っています。多くの千葉高生たちは、それをまるで呼吸するかのごとく全く自然に吸収していたようなのです。
何の強制もなく、あまりに自然なので、意識化される機会も少なく、それ故、言語化される機会も少なかったのでしょう。だから「何となく、しかし、当然の事として感じていたという人が非常に多かったのではないかと思います。
そこに私が、皆さんがうすうす感じていたことを文章化したので、
「そうそう!そうなんだよ。それそれ!」
「そうか、そういうことだったのか」
という納得の共感が一気に広がったようなのです。
私はこれを知った時、改めて「千葉高の教育力は凄い」と思いました。
そして実に目に見えくいです(笑)。
目に見えにくいと言えば、ある学年会議の中で、ある先生が「先生方、全然生徒指導してないじゃないですか?」という発言をし、私が「そんなことはない」と言おうとする前に、別の先生が「それは聞き捨てならない。」と返すバトルがありました。
しかし、全く生活指導をしてないと見えるのも無理からぬことかなあとも思いました。
何しろ私自身が「そんなことはない」といいつつ、「じゃあ、どういう指導をしているのか?」と聞かれたときに答えようがないなとも思っていたからです。
何しろ、「生徒と一緒にいて楽しくおしゃべりする」とか「相談された時だけ相談を受ける」とか言っても「何それ?」で終わってしまいそうだからです。
しかし、私は、囲碁部創設当初の学年で、顧問として部員を強くしたいと思い、とても謙虚に囲碁の指導をすると、「ありがとうございました」といいつつ、いつの間に部員が離れてゆくとい経験を数回しました。
その私にとって、「千葉高生に対しては、差し出がましいことは本当に禁物なんだな」としか思えないのです。
それ以来私は、生活指導をするという概念は手放し、おしゃべり・雑談の中で「私はこう思う」とか「私はこういう体験をしてこう思った」と言うに留めるようにしました。そして、それを生徒が賛同するかどうかは別問題として、私が言いたいことは、その行間まで含めて十分伝わっていると感じていました。
私の千葉高生へのスタンスとしては、それで正解だったと今でも思っています。
ただし、まだ中学生の感覚を引きずっている新入生に対しては、明確な指導の意図で、千葉高の自由と責任について伝えていきました。しかし、それはやはり理念指導であって、生活指導ではありません。
驚きと感謝の気持ちで読ませて頂きました。
ありがとうございました。
ところで、とても多くの卒業生が、
口をそろえて言っていることが2つありました。
「千葉高が今の自分の原点になっている」
「卒業して初めて千葉高のすごさがわかった。誇りに思う。」
これは何気に凄いことではないかと思います。
特に1つ目が。
ところで、今回のブログは、「少しでも共感してくれる卒業生がいるといいなあ・・・」くらいの気持ちで、実は恐るおそるfacebookに投稿したのです。ところが、蓋を開けてみると、何と当初は、一晩ごとに30くらいずつシェアが増えていくではないですか!「なんだこれは?一体何が起きているんだ!?」と目が点になりました。
しかし、先日、ブログを読んでお見舞いに来てくださった2人の卒業生の話を聞いて、その謎がほぼ解けました。どうやら、その秘密は、卒業生の方々が、何となく感じていたことを私がはっきりと文章化したことにあったようです。
「自由と責任は表裏一体」
「自主自律は当然のこと」
「私とあなたの考え方は違う。でも、そのままのあなたを尊重します」
千葉高システムの高い意図が創りだすこのような千葉高の素晴らしい理念は、まるで空気のように千葉高全体に行き渡っています。多くの千葉高生たちは、それをまるで呼吸するかのごとく全く自然に吸収していたようなのです。
何の強制もなく、あまりに自然なので、意識化される機会も少なく、それ故、言語化される機会も少なかったのでしょう。だから「何となく、しかし、当然の事として感じていたという人が非常に多かったのではないかと思います。
そこに私が、皆さんがうすうす感じていたことを文章化したので、
「そうそう!そうなんだよ。それそれ!」
「そうか、そういうことだったのか」
という納得の共感が一気に広がったようなのです。
私はこれを知った時、改めて「千葉高の教育力は凄い」と思いました。
そして実に目に見えくいです(笑)。
目に見えにくいと言えば、ある学年会議の中で、ある先生が「先生方、全然生徒指導してないじゃないですか?」という発言をし、私が「そんなことはない」と言おうとする前に、別の先生が「それは聞き捨てならない。」と返すバトルがありました。
しかし、全く生活指導をしてないと見えるのも無理からぬことかなあとも思いました。
何しろ私自身が「そんなことはない」といいつつ、「じゃあ、どういう指導をしているのか?」と聞かれたときに答えようがないなとも思っていたからです。
何しろ、「生徒と一緒にいて楽しくおしゃべりする」とか「相談された時だけ相談を受ける」とか言っても「何それ?」で終わってしまいそうだからです。
しかし、私は、囲碁部創設当初の学年で、顧問として部員を強くしたいと思い、とても謙虚に囲碁の指導をすると、「ありがとうございました」といいつつ、いつの間に部員が離れてゆくとい経験を数回しました。
その私にとって、「千葉高生に対しては、差し出がましいことは本当に禁物なんだな」としか思えないのです。
それ以来私は、生活指導をするという概念は手放し、おしゃべり・雑談の中で「私はこう思う」とか「私はこういう体験をしてこう思った」と言うに留めるようにしました。そして、それを生徒が賛同するかどうかは別問題として、私が言いたいことは、その行間まで含めて十分伝わっていると感じていました。
私の千葉高生へのスタンスとしては、それで正解だったと今でも思っています。
ただし、まだ中学生の感覚を引きずっている新入生に対しては、明確な指導の意図で、千葉高の自由と責任について伝えていきました。しかし、それはやはり理念指導であって、生活指導ではありません。
2012-07-10 20:44
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